「戦場からの証言」証言者の兵歴
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海軍:飛行機整備科 硫黄島〜終戦〜捕虜収容所(グァム島〜ハワイ、サンフランシスコ等)

大曲 覚さん

生年月日1922年(大正11年)6月1日
所   属海軍、飛行機整備科・海軍予備学生、南方諸海海軍飛行隊
兵   科
最終階級
転属歴
▲1943年(昭和18年)10月1日、海軍予備学生として海軍、飛行機整備科に入隊(21歳)
△南方諸海海軍飛行隊に所属。玉砕の地硫黄島へ。
  米軍上陸に備え島中に蛸壺トーチカ作りに従事する。
△1945年(昭和20年)3月18日米軍、硫黄島に上陸、米軍の圧倒的な戦力での総攻撃で日本軍は壊滅状態になった為、壕を出て投降を呼びかける米軍に投降。
▼硫黄島から捕虜としてグァム島を始め、ハワイ、サンフランシスコ等アメリカ各地の収容所を転々とする。

帰国年月日 1946年(昭和21年)1月、帰国。


取材日:2005.09.18


▲硫黄島

 戦場証言

 1945年(昭和20年)3月18日米軍、硫黄島に上陸、日本軍は総攻撃を受け、わずか数日で2万余の日本軍は大半が戦死、壊滅状態に陥る。
部隊間の連絡も途絶える中で、ばらばらの突撃(万歳突撃)。
生き残った兵隊は島内に掘りめぐらした横穴壕に隠れはしたが、水、食料もなく、人減らしも狙って2〜3人づつ切り込み隊として壕を追われた。食べ物を求めて戦場に散乱する米軍の野戦食で飢えを凌いだ。
壕に米軍は水、ガスを注ぎ日本兵をいぶり出した。
米軍に降伏しても殺されるかもしれないが、助かるかもしれないと思い、壕を出て投降を呼びかける米軍に投降した。

2万余の日本軍は戦死、米軍も7万の兵力の内、3万の戦傷者を出す激戦であった。


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