「戦場からの証言」証言者の兵歴
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陸軍:歩兵 中国:河北省 唐山市、 鄭州〜漢口武昌〜来陽、新京〜敦化〜新京(終戦)

沖縄:宜野湾村嘉数〜那覇末吉〜具志頭村仲座(投降)〜収容所(屋嘉)終戦

◆近藤 一さん

生年月日:1920年(大正9年)3月31日
所   属:陸軍 独立混成第4旅団 石 第13大陸第2中隊 ■兵科歩兵
最終階級伍長
転属歴
▲1940年(昭和15年)12月2日、現役徴兵(20歳)
△同年2月12日頃、八路軍(中国共産党軍)の最も重要な抗日拠点に位置付けられた山西省遼県(現左権県)に到着。独立混成第四旅団の独立歩兵第13大隊に配属。
△1941年(昭和16年)9月、討伐作戦が始まり部隊は五台山へ
△1944年(昭和19年)3月、第4旅団は第62師団に改編。河南省の作戦に参加
△同年8月、第62師団に南方行きの指令。上海から輸送船「対馬丸」に乗り、沖縄へ
△1945年(昭和20年)4月、宜野湾村嘉数(当時)にて右肩を受傷鎖骨を骨折するが、すぐさま那覇末吉の前線へ送られる。
△同年 5月27日、南部撤退命令が下る 。
▼同年6月
6月20日、具志頭村の仲座。敗残兵3人でバンザイ突撃を決行したが、失敗、米軍に投降し捕虜になる。1200人いた第13大隊は4月から6月までの戦闘で9割以上が戦死。収容所内で終戦を迎える。
▽屋嘉の捕虜収容所に半年間を収容された。
帰国年月日1946年(昭和21年)1月 、故郷の三重県阿下喜町に帰郷


取材日:2005.05.01

【第27師団 通称:極】
中国戦線で誕生した師団
編成:1939年(昭和13年)6月21日
編成地:華北
所属歩兵連隊:(終戦時)
・支那駐屯第1(佐倉)
・支那駐屯第2(東京)
・支那駐屯第3(甲府)

 第27師団の前身は「北支那駐屯混成旅団」で長年天津方面の警備と治安維持に当たっていた。昭和13年2月、
支那駐屯兵団に改編。同年6月に再び改編し、「第27師団」となる。
 昭和13年7月華中方面の戦線に投入。第11団の指揮下に入り、武漢攻略作戦に参加。作戦終了後は華北に戻り、天津周辺の警備・治安などに従事。
 昭和14年9月支那派遣軍が新設。その管轄兵団となり、華北周辺の警備・治安などに従事。
 昭和18年6月に関東軍の指揮下に入り満州に駐屯。
※この同時期に井ノ口さん入隊
 昭和19年2月、大陸打通作戦に参加、華北へ。4月に京漢作戦。5月からは第1湘桂作戦に参加。
そして 華南の飛行場破壊を行った。
昭和20年に広東に駐屯したものの、連合軍上陸に備える為に南京方面に向かう途中終戦となった。

 戦場証言

 近藤さんは日本軍の加害証言を法廷の場で初めて証言。兵役中は、中国戦線と、激戦地沖縄での2つの戦場を体験。
中国戦線ではどの地域であるのか知らされないまま、初年兵であるがゆえ、古参兵の分の荷物まで背負い延々と大陸を歩く日々が続いた。そして…
生きている中国人を的に、初年兵は銃剣の訓練をさせられた。人間の身体は硬いと思っていたが、銃剣はまるで豆腐を刺したかのように抵抗無くにスゥーっと入っていった。銃剣を引き抜いた途端に鮮血が飛び散った。
そうして死んだ中国人は村の片隅に掘られた穴にどんどん放り捨てられ、夜には野犬が死骸を貪り食って、暗闇の中で遺体がガサゴソと動くさまを見た時はゾッとした。
  行軍の途中で立ち寄った
村では、輪姦目的で拉致した中国人女性を逃げられない様に裸のまま縛り、大隊と共に連れ回した。」近藤さんは懺悔交じりに語りだした。
軍の徹底した階級制度と、戦場での壮絶な光景を目の当たりにするにつれ人間性は失われていく…声を震わせながら語る姿は自己満足だけの懺悔話ではなく、あの時の場景を遺さなくてはならないという気迫によって語り続けられていく。
 沖縄での戦闘では、兵士自ら「肉迫弾」となりアメリカ軍戦車の死角へ爆弾を爆破、戦車の動きを封じる作戦では殆どが自爆、別の戦車から砲撃を受けて戦死、生存者は僅か1名きり。戦友が「じゃあ、行ってくる」と言い残し「肉迫弾」となり、二度と戻っては来なかった…
戦死した兵士の上をアメリカ軍の戦車が踏み引き、遺体はグチャグチャに潰されていく。地獄だったと語る。
追われるように沖縄を南下し続け、6月20日仲座にて第13大隊玉砕(1200人いた第13大隊は4月から6月までのわずか二ヶ月間の戦闘で9割以上が戦死した。)
、6月23日、第32軍司令部玉砕。
敗残兵3人でバンザイ突撃を決行するが、失敗。近藤さんは米軍に投降した。

収容所内で終戦、屋嘉の捕虜収容所に半年間収容された後、1946年1月に帰郷した。


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