「戦場からの証言」証言者の兵歴
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陸軍:航空兵 内地(国内):日立水戸東飛行場

中国:新京〜吉林省敦化、新京〜公主嶺(終戦)

シベリア抑留:シワキ〜ポシエット〜クラスキノ〜ウオロシーロフ〜ナホトカ  

◆猪熊 得郎さん

生年月日:1928年(昭和3年)9月16日生
所   属:陸軍 第2航空軍 第22対空無線隊   ■兵科航空兵
最終階級伍長
転属歴
▲ 1944年(昭和19年)
 旧制中学3年の時に15歳で陸軍特別幹部候補生に志願
▲同年4月8日、水戸陸軍航空通信学校長岡教育隊に入隊
 陸軍特別幹部候補生陸軍一等兵となる
△ 同年12月、教育課程修了
△ 1945年(昭和20年)2月、日立常陸教導飛行師団の水戸東飛行場に配属
△ 同年2月16、17日、米海軍戦闘機の空襲を受ける
△ 同年4月、関東軍の第二航空軍第22対空無線隊(中国の新京)に転属
△ 新京〜吉林省の敦化飛行場にて陽動無線の任務に就く。新京〜敦化〜新京〜8月15日 
公主嶺飛行場に到着。
△ 8月17日、2日遅れてようやく停戦命令を傍受。
  ソ連軍の侵攻、直前八路軍と満州軍の反乱、そして日本軍内の混乱を体験。
▼ 武装解除、ソ連軍の管理下入り、9月17日、シベリア鉄道でアムール州シワキ収容所で2年、その後ポシエット〜クラスキノ〜ウオロシーロフ〜ナホトカと沿海州の収容所に移動。
▽ 1947年(昭和22年)11月28日、ナホトカを出航。12月2日に舞鶴に着。
父親は前年に亡くなり、兄は「回天特攻隊員(人間魚雷)」白龍隊員として戦死していた。

帰国年月日1947年(昭和22年)12月2日に舞鶴に着。帰国




▲特幹間もない 猪熊さん

■取材日:2005.10.16

【陸軍特別幹部候補生】
 戦線の拡大で不足した技術系下級幹部を、15歳から19歳の少年を集め、速成して戦地に送り出すという1942年(昭和19年)に陸軍で初めて出来た制度、略称「特幹」。
 第一期生は船舶兵と航空兵。一般の兵隊は2等兵として入隊し現役服務2年で上等兵となるが、特幹は上等兵で入隊し、半年毎に昇進し1年半で教育を終え、伍長もしくは軍曹の下士官になって第一線部隊に配属される。
 猪熊さんの話では、全体数のうち約三分の一の少年は親の反対があったにも関わらず、親から黙って印鑑を持ち出してまで志願したという。(承諾書に親の捺印が必要だったため)

船舶特別幹部候補生
 南方における陸軍の上陸・輸送の増大とともに船舶部隊が拡大増設されたが、圧倒的に不足した下級下士官を補うために生まれた。第一期生、1900名のうち1200名が特攻・海上挺身隊としてルソン島・沖縄で戦死。


 戦場証言

少年志願兵となった負い目を持ち続けてきた六十年。
「回天特攻隊員(人間魚雷)」として戦死した兄。
ごく普通の少年が志願兵となり、目の当たりにした戦場とは?


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