「戦場からの証言」証言者の兵歴
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陸軍:衛生兵 口等
中国:中支派遣軍 南京、徐州、ケイモン、武昌、漢口等〜終戦〜収容所(江西省長里湾)

◆本郷 勝夫さん

生年月日1923年(大正12年)
所   属陸軍・中支派遣軍第13師団 鏡6815部隊
          第一野戦病院(中国湖北省ケイモン) 
兵科衛生兵
最終階級
転属歴
▲1943年(昭和20年)11月召集
陸軍・中支派遣軍第13師団鏡6815部隊
  第一野戦病院(中国湖北省ケイモン) 衛生兵
△南京、徐州、ケイモン、武昌、漢口等中国二千四百kmにも渡る行軍を経験。
△中国湖北省
▼1945年(昭和20年)中国湖南省・ライオウの第一野戦病院にて3日遅れの終戦を知る。
▽1945年(昭和20年)10月〜翌年5月まで江西省長里湾の収容所に収監。

帰国年月日1947年(昭和22年)11月、山口県仙崎に帰国


取材日:2005.06.27

【第13師団 通称:鏡】
日露戦争末期に編成
日中戦争時に特設師団として再編成され上海戦線に投入される
編成:明治38年4月1日、
    大正14年廃止、
    昭和12年9月10日再編成
編成地:仙台
終戦時の師団長:吉田峯太郎
終戦時の上級部隊:
支那派遣軍
終戦時の所在地:中国、長沙(華中)
所属歩兵連隊:(終戦時)
・第65(会津若松)
・第104(仙台)
・第116(新発田)

 日露戦争で樺太占領作戦に従事。第一次世界大戦後の不況による財政上の軍縮により、大正14年5月に廃止。
 しかし、昭和12年7月、日中全面戦争が勃発、次々と師団が派兵されることになった。そのため、従来の常設師団から新たに特設師団が編成されることになった。第13師団はは仙台の第2師団を母体に歩58(高田・昭和17年に第31師団に転属)、歩65(会津若松)、歩104(仙台)、歩116(新発田)の歩兵4個連隊と山砲兵第19連隊からなる師団として復活。激戦が続く上海戦線に投入された。
上海戦後は南京攻略戦に参加、続けて徐州会戦、武漢攻略作戦に従軍し、その後も師団は中国戦線でさまざまな作戦に参加した。
しかし、昭和19年の湘桂作戦いわゆる大陸打通作戦に参加したものの翌年には戦線を縮小、揚子江沿岸に後退中に終戦を迎えた。

 戦場証言

「衛生兵としての教育は戦闘の合間、浮き足だつ中での20日間のみ。
野戦病院は治療をする所ではなく、並べて死ぬのを待っている。
コレラ患者に対しては、感染するといけないので触れてはいけない、水もやるなと命令が出た。
兵役中の行軍の移動距離は2300キロ、それも殆どが夜間だった。」


 役場に勤める同級生が申し訳なさそうに差し出す赤紙を「お前が決めたわけじゃないんだから、仕方ないよ。」 そう言いながら受け取った。
「 徴兵検査では第三乙種合格。まさか兵役に就くとは思いもしなかった。」徴兵検査では第三乙種合格だった本郷さんは、まさか自分が兵役に就くとは思わなかった。

 仙台駅発の列車のデッキから郷里を見つめながら、「また帰れるのだろうか?」と不安な気持で出兵した仙台〜名古屋さらに出航地の下関に到着。どこに向かうか知らされないまま輸送船の船底に押し込まれた状態での出航(出国)となった。
当時召集された者は南方に行くとの噂があったが、赤い河を見た古参兵の「上海だ」との声で中国に着いたと解った。
本郷さんと一緒に召集された85名の内半数近くが身障害者、身長158cm体重50kg未満であった本郷さんが上等な方で、戦地に着くまでの輸送途中で5名が死亡している。

1944年(昭和19年)一月に南京〜オウジョウ〜3月に慶門〜4月シンコウ着、ようやく行軍が終了する。作戦の配属編成があり、4月20日から20日間の衛生教育を受ける。

5月20日作戦に参加するため、クンコウから船で武昌、3日歩いていくと砲声が聞こえはじめる。さらに一週間熱く、水もない状態で険しい山道を歩く。
限界を超える行軍を経てカント市に到着した。
クリークで洗濯中、野戦病院から3キロ程離れた工兵陣地がP51爆撃機の攻撃を受け、しばらくして本郷さんの野戦病院に次々と負傷者が運び込まれるものの、満足な施設のない野戦病院では、処置の仕様がないまま多くの兵士が死亡した。

 本郷さんの行軍は更に続く。糧秣(食料)が尽き、徴発と称した地元民からの食料の略奪を余儀なくされる。そうしながら、7月に3コ師団がかりの大きなコウヨウ作戦に参加。
野戦病院には次々負傷兵が運ばれて来るが、薬も設備も無い病院は名ばかり、患者を受け取るだけで処置も出来ず、まるで『死への待合室』だったと語る。
本郷さん達に出来ることといえば、「ホルガ」と称する米ぬかをビタミン剤として患者に与え、のり状のおかゆにおかずは塩のみといった粗末な食事をさせる事しかなかった。
 コレラに感染した患者にはこれ以上の感染を避けるため、軍医から患者に触ってはならないと命令され、看病は愚か水を求める兵士に水を与える事も出来ずに困惑した。

  更に処置のしようがないコレラの患者は生死に関わらず一軒の家に集められ、そのまま家屋ごと火葬されたそうである。
「2年間衛生兵として野戦病院にいたが外科手術をした外科医を見たことはなかった。」最後にそう本郷さんは言い放った。
反転命令の途中ライオウに着いた昭和20年8月18日に終戦を知る。復員船を待つ期間、捕虜となり1947年6月上海港から浦賀港着。
しらみとのみだらけの毛布だけを持ち、家に辿りついた本郷さんを見るなり、家族は庭にゴザを引いてそこで軍服を脱がせ、風呂に入って着替えをさせた。
本郷さんの2年間、中国大陸二千三百キロにも及ぶ行軍を続けた軍隊生活がようやく終わった。


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