「戦場からの証言」証言者の兵歴
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陸軍:工兵・通信兵 中国:安慶、岳隊、常徳、衝陽等〜湖南省宝慶(終戦)

◆久田 二郎さん

生年月日:1920年(大正9年)
所   属:陸軍   ■兵   科工兵・通信兵
最終階級陸軍兵長
戦場地名
▲1939年(昭和15年)〔20歳〕徴兵検査……第二甲種合格
▲1941年(昭和17年)〔22歳〕召集令状にて応召される
             第116師団工兵第116連隊(嵐)工兵
▲常徳作戦では工兵、
  湘桂作戦(大陸打通作戦の一部)では通信兵として参戦
△中国安慶、岳隊、常徳、衝陽と中国大陸広域を行軍
▼1945年(昭和20年)〔25歳〕中国湖南省宝慶にて終戦を迎える

帰国年月日1946年(昭和21年)7月、鹿児島に帰国


◇初代朝風の会代表 
取材日:2005.06.27

【第116師団】
1944年(昭和20年)4月
各種部隊
司令部…大阪
独立歩兵大隊…大阪・和歌山
旅団砲兵隊…信太山
旅団工兵隊…大槻
旅団通信隊…大阪
旅団輜重隊…境
を集成して編成し、ハイラルでソ連の大軍と
壮絶な攻防戦を展開。

【大陸打通作戦(一号作戦)
1944年になり、南方との交通路が遮断されるとともに、大陸から西日本への戦略爆撃が懸念される状況となったため、日本軍は中国大陸を横断して南方との連絡線を構築するとともに中国南方の航空基地を覆滅するという大陸打通作戦を実施した。

湘桂作戦
  湘桂とは中国の湖南省と広西省の意味。
  桂林地区と柳州地区の航空基地を攻略するとともに、南部仏印まで連絡線を確保するという大規模のものでした。
この作戦の中心となった中国戦線南部の最前線兵団である第十一軍をはじめ、共に参加した兵団は10個師団にも及んだ。

 

 戦場証言

1941年(22歳)応召
所属:
第116師団(京都)工兵第116連隊(嵐)工兵
配属地域
:中国戦線


  久田さんが徴兵検査を受けた昭和15年当時、日本軍はすでに兵不足が深刻化。その為、それまで徴兵検査で甲種合格者のみが即兵役だったものを、待機兵ランクの乙種を2種に分けて第一乙種も即兵役に繰り上げていた。

 1939年、東京に住んでいた久田さんは、簡単な手続きで東京で受けられるはずだった徴兵検査を、わざわざ生まれ故郷の滋賀県にまで出向いて受けに行った。
東京よりも体格の良い人間が多い田舎の方がランクが低く見られるだろうと推測。東京での生活を続けたいし、元々虚弱体質で声には出せないが戦争に行く気にもなれずにいた。
当時流行病だった「眠り病(熱病)」を患い、片方の耳の聴覚を失ったせいもあり、徴兵検査では第二乙種(待機兵)となった。しかし、第二乙種とはいえ、当時は何時応召(赤紙)がきてもおかしくない状況であった。

 徴兵検査から一年半後の昭和17年。とうとう久田さんの元に召集令状(赤紙)が届く。沼津市の軍事工場に勤務していた久田さんは壮行会をしてくれた会社の独身寮の寮長より「軍隊というものは要領が全てだ、要領の良い者だけが生き残る。だから畜生と呼ばれてもいいから生きて帰ってこい。」との言葉を贈られ一旦東京の実家に寄ってから、滋賀へと向かう。
 滋賀から一転、第116師団(京都)の工兵として、第一期(三ヶ月)教育を受けるために京都に移る。工業系の学校出身という事で工兵として配属されたのだが、同期の工兵は全て現職の土方・職工出身者ばかりの中で久田さんは日々、身体を酷使する軍事教練をこなし、教育期間が終わる頃にようやく幾分かの体力がついてきた。

  教育期間が終了し、外地の戦場へ向かう前の健康診断で歯痛により、診断の結果外地行きを延期される。
一週間後、事務官から、当初乗って行くはずだった輸送船が米軍の潜水艦の攻撃を受けて撃沈された事を知る。歯痛によって運良く命拾いをした。
一ヵ月後、今度は本当に外地戦線へ行くことになり、京都の本願寺境内での出兵式が行われた。東京の家族に連絡もとれないまま、独りで迎えた京都本願寺での出兵式。
家族との最後の別れを惜しんでいる数千の兵の集団から離れ、独り佇んでいた久田さんの背のうに一羽のハトが止まった。そのハトを見て「これは良いことだ。私はこの戦争で死なずに、生きて帰ってこられる。」という確信を抱き、中国戦線へと向かった


 釜山から列車で上海へ。北京で正月を迎える。そこから揚子江を船で上流し、安慶に到着。派遣本部116師団工兵116連隊と合流。第二期目の教育が始まる。

部隊編成により、「常徳作戦」に参加。
敵が強く日本軍は戦死者が続出。強固な城壁とトーチカを突破するために久田さんの所属する竹岡連隊(約30名)が決死隊となり、トーチカ爆破の任務を受けた。責任感の強い竹岡中隊長は自らが、部下3名と共に任務を遂行、爆弾を抱えてトーチカへと向かう。しばらくして待機していた久田さんらの耳に激しい爆音が聞こえた。3人の兵は無事帰還したが、竹岡中隊長は耳を吹き飛ばされ、顔半分に重傷を負ってしまった。
彼らの爆破工作でトーチカと城壁の爆破に成功し、常徳攻め落とす事ができた。
 常徳を落としたとはいえ、この作戦で日本軍は戦死者四千五百人(大本営発表)を出してしまった。
常徳作戦終了後、反転作戦 (引き揚げ)行きの一本道を二万の兵が一同に戻るというもの。しかも、中国の援軍(蒋介石の重慶軍)が後を追いかけて来る。常徳作戦で大打撃を受けたばかりの日本軍には応戦できるはずもなく、雪崩のような行軍であった。
この反転作戦の際、久田さんは歩き詰めで喉の渇きを道端のクリーク(小川・沼) の水を飲んだりしながら必死になってひたすら歩き行軍に続いたのだが、そのうち腹痛に襲われ、下痢が続き最後には便は白く血が混じっている、熱も出てくる。それを見かねた戦友が銃を持ってくれた。死に物狂いになりながら歩き、ようやく日本軍の占領地(揚子江付近)へ帰り着いた。そのまま野戦病院へ入院意識不明のまま昭和18年を越した。クリークの水を飲んだことが原因で赤痢と腸チフスを併発し、「お前は昭和18年最後か、19年最初の戦病死者かと思った」と衛生兵に言われ、そのまま死んでいてもおかしくない危険な状態だったという。


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