「戦場からの証言」証言者の兵歴
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◆山内 武夫さん

生年月日:1921年(大正10年)
所   属:陸軍   ■兵   科
最終階級
戦場地名
▲1942年(昭和17年)10月〔21歳〕学徒臨時長徴兵……「誉」部隊(第43師団)所属
△1944年(昭和19年)〔23歳〕…「誉」部隊(第43師団)所属:
                  分隊長としてサイパン島へ従軍
▼1944年(昭和19年)7月〔23歳〕…米軍へ投降。ハワイ・本土にて捕虜生活を送る

帰国年月日1946年10月(昭和21年):復員


一般住民をも巻き込んだ悲劇の玉砕地、サイパン島

【サイパン近郊地図】

 昭和19年6月15日、太平洋沖マリアナ諸島の一角サイパン島は、米軍の上陸を受け、一般住民をも巻き込んだ悲惨な戦闘となった。この時サイパン島には、第31軍指揮下の北部マリアナ地区集団、陸軍28,518名、海軍15,164名、総計43,682名の将兵がいた。(推定)。戦闘主力は山内さんの所属していた歩兵3個連隊からなる第43師団16,000名である。これに対してサイパン島に上陸した米軍は62,000名を数え、圧倒敵な兵力と武装であった。
 米軍は地上戦初日に約2万名うちの1割が上陸地点で死傷するという損害を受ける。日本軍は夜襲を交え、また島にそびえるタッポーチョ山の洞窟に潜んで抵抗戦を展開(「死の谷」と言われる壮絶な戦闘となった)。
 戦闘10日目、日本の大本営はサイパン島放棄を決定。6万余りの日本人は見捨てられた。しかし、現地では知る由もない日本軍と邦人は島の北部へと追い詰められていった。武器弾薬の尽きた日本軍は壊滅状態、世に言うバンザイ突撃、最後の総攻撃が7月7日、行われることになった。しかし、戦局を左右する程の力はなく、サイパンの日本軍は崩壊、マッピ岬に取り残された邦人たちにも最期が迫ってきていた。岬の断崖から飛び降り自殺した邦人の数ははっきりとしてはいないが、1万2千人とも言われ、岬付近の海岸が日本人の死体で埋め尽くされたのは事実である。今、これらの場所は「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ(自殺の崖)」と言われている。


 戦場証言※証言者の言葉を忠実に文章化しています。

1942年(21歳)学徒臨時徴兵
所属:「誉」部隊(第43師団)所属 
配属地域: サイパン島


大本営発表
「サイパン島のわが部隊は、4月南下早暁より、全力を挙げて最後の攻撃を敢行。所在の敵を 拾減し、その一部はタコウチュザンまで突進し、優先力と敵に多大の損害を与え、16日までに全員壮絶なる戦死を遂げたるものと認む。サイパン島の 在留邦人は終始軍に協力し、およそ戦えうる者は完全戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にするものとする。 」



 米軍が僕たちの正面に上陸してきた第1日目 、僕の所属部隊は壊滅状態になって、大部分は海岸で死んだ。残りが山の中に逃げた。
とにかく余りにも圧倒的な力の差。
  サイパン島に上陸してきた米軍は、海兵隊2個師団・5万人と、 歩兵の1個師団・1万7千人位の併せて7万人位。それを迎え撃った日本軍は、数は4万人位いたけれども、持っている武器が圧倒的に日本は古くさい武器で、大人と赤ん坊ぐらいの違いがある。

 僕は実は、部下に対して、自分に対して、自分の思想に対して、とても無責任な 行動をその第1日目に取っているんですね。
そのことを考えると、もの凄く何というか・・・、良心が痛むというか・・・、これは最期まで、僕は死ぬまでこの気持ちを引きずっていかなければならない訳ですけれども、分隊長だった僕は「突撃せよ」と言われて、突撃の命令を出しているんです。
命令すると、僕が真っ先に行かなきゃいけないので、目の前7、80メートルから100メートルのところにずらっといるアメリカ軍に向かって僕が真っ先に飛び出したんですね。
すると、飛び出したのはいいんだけど、突撃しろって言われて突撃しているんだから、そういう無責任な気持ちで突撃の命令を出しているんだから、飛び出してそれからどうするという当ても何も無い。
飛び出してすぐに大きな石ころがあって、それが目に入ったんで、すぐそこに飛び込んで身を屈めたら、その岩に向かって自動小銃が「バババババババ」「ガチガチガチ〜ン」と音がして、僕の喉を弾がかすって、血がボタボタボタッと落ちて、僕はそこに伏せたまま動けなくなった。
僕の後に何人付いてきているかそっと見たら、二人の部下だけなんですね。後のは怖くて塹壕から出てきていない。
ところが僕の命令に忠実に従って出てきた左側の部下はすぐに撃たれて死んでしまった 。
もう一人右の方の部下も右目をやられて、目が見えなくなって塹壕に引き返した。
結局僕も一人になってしまったものだから、塹壕に駆け戻った。

 その行為が僕はずっと心に咎めているんですね。まあ、言い訳は色々自分に一杯していて、結局負け戦なんだから、島で戦争をして負けたら日本軍の場合は全員生き残っちゃいけない訳なんですから、玉砕命令が必ず出る。
だから僕の命令のせいで真っ先に死んだ兵隊に対しては申し訳ないと思うけど、しかしどっちみち死ぬんじゃないか。
そういう言い訳を自分にして今日まで来ている訳ですけど、それは言い訳であってですね、自分に対して「何て情けない人間だ」という思いは今でもある訳です。

 山の中をこっちに逃げて叩かれて、またこっちに逃げて叩かれて、またこっちに逃げて、それを繰り返して僕の連帯は山中で全滅。
僕と二人の部下だけになってまた海岸に出てきたんです。その海岸で僕は部下に
「もう日本軍は負けることははっきりしているんで、こんな馬鹿馬鹿しい戦争で犬死するのはよそうではないか。
日本が負けたら日本の全てが無くなって仕舞うと思っているかもしれないけど、日本帝国が負けたって日本の社会は残るんだぞ、日本人も残るんだ。日本の新しい社会を作ってスタートするんだから、その時まで生き残ろうじゃないか。」 と言いました。
そしたら部下二人が「班長の言われることは非国民の思想だ。自分たちは帝国軍人として恥ずかしくない死に方をしたい。自分たちは行動を共に出来ないからここで別れます。」と言って彼らは夜ジャングルの中に消えていった訳です。

 僕はいよいよ一人になっちゃって、投降しようという気持ちになって、ある洞窟に辿り着いたんです 。
  そこには日本の兵隊が7,8人、下士官が洞窟のボスになっていて、その下に乳飲み子を抱えた若い母親たちがいました。
もうオッパイが出ないですから、食うや食わずだから、赤ん坊が泣くわけですよ。 そしたらその下士官が、
「よし、もう赤ん坊を泣かせるな。俺たちは身の安全を図るためにこの洞窟にいるんじゃないんだぞ。俺たちは戦闘をしているんだから、お前ら赤ん坊を泣かせるなら全部ここを出て行くか、赤ん坊を殺すかどちらかにしろ。ここにいたいなら全部赤ん坊を殺せ。」
そう命令した訳です。
一人の母親が洞窟から出て行きましたが、あとの母親は決心が付かなくて赤ん坊を殺しますと・・・
殺しにかかるのだけれど、なかなか殺せないので
「よし、俺の部下にやらせるから早く殺せ」
と下士官が言う。赤ん坊は10人近くいたと思いますけど、結局全部殺しました。首を絞めて殺したと思います。

 三日目ぐらいになると洞窟の中は赤ん坊の死骸の臭いで居たたまれなくなりました。
夜中にこっそり洞窟を抜け出すと、もう最終段階なのであっちでもこっちでも手榴弾での自決が始まっている。
「天皇陛下、万歳!」と言ってあっちの岩で「バーン!」こっちで「バーン」。
僕はそれに巻き込まれて死にたくはないと思っていると、夫婦者と15・6歳の娘さんと、中年の兵隊だかなんだかよく分かんない男性の4人と会って一緒に夜をすごしました。
朝になると、アメリカ軍が拡声器で投降勧告を始める
「日本軍のみなさん。武器を捨てて出てきなさい。10分起ったらまた攻撃を始めます。」
僕は「ちょっと出かけます。」何処に何しに行くとも言わない、一緒に・・・とか言わない、もう他の人の事は考えない事にして歩き出して、いよいよ原っぱに出るとアメリカ軍が銃を向ける。

  僕は手を挙げて振り返ると、あの4人を含めて民間人が10人ぐらいぞろぞろとついて来ていました。

 サイパン島では日本軍4万名、在留邦人約1万名が戦没。
山内さんの中隊では、300名の内3名のみが生還した。

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